■ 全塗装(剥離と再塗装):擦弦楽器チェロ編
● さて、久しぶりの修理修復のコーナーを更新します。しかも今回は擦弦楽器です。基本的に私は撥弦楽器しか扱いませんが今回は特別です。そもそもヴァイオリンとかガンバとか、擦弦楽器の修理のノウハウはワタクシは持っておりません。じゃぁ、どうしてチェロなのよ?
まずはこの写真↓を御覧ください。なんと、ナチュラル(クリア塗装)のチェロです。ちょっと珍しいでしょ? たいていは茶褐色系のニスが使われますが、この楽器は良質の木材が使われていることもあってか堂々とクリア塗装。パット・メセニーのアーチトップですな。カーリーメイプルのボディはなかなか貫禄があり、実際にオーナーいわく「音も良い」とのこと。
ところがこの楽器.....
全面がラッカー塗装!
遠目で見れば綺麗な楽器ですが、...... 身近で観察すると極厚のラッカー塗装は随所に「塗料溜まり」を発生しており、塗料でくっつきそうなfホールや不自然な凹凸が全域に見られます。異常に光沢が目立ち、安い量産ギターのような塗装です。オマケに半乾きの状態で扱ったとみられる指紋もボディの数カ所に確認できます。さらに、全体をくまなくチェックすると工作途中(未仕上げ)の部分も多いです。おそらく何らかの事情があった「ワケ有り物件」と推測します。
それにしても、なんて分厚い塗装でしょう。
●
今回の修理の依頼主(楽器のオーナー)はもともとギター弾きで、近年チェロも始めたということです。この楽器も最近入手されたようですが、塗装のあまりの状態に耐えかねて再塗装を決意。このままでは楽器がカワイソウ、本来の塗装の状態ではないであろうとの判断です。なるほど、たしかにそう思います。楽器の工作はしっかりしていますが塗装だけがこの状態というのも不敏な話です。オーナーはこの塗装の深刻な事態に購入してしばらくたってから気付き、困惑し、数件の楽器店に相談されたようです。
いわく、
> 愕然とし、再塗装を目的に高額出費を覚悟で弦楽器修理屋をあたりましたが、
> ラッカー剥離の作業を嫌がり、なかなかうけてもらえません。
そりゃそうだ。エレキギターやモダンなアコギならともかく、手工品の擦弦楽器の全塗装をやるショップや製作家は世界中探してもたぶんありません。新作楽器や部分塗装(補修)と違って全体の剥離を伴う再塗装は色ムラ、傷が残る、音色の変化、全体の印象の変化、などリスクが大きいのです。費用対効果を考えても剥離作業だけでかなりの手間と時間がかかり、理不尽な請求をせざる得ないのです。もちろん、そのことがわかっている修理屋さんはこういった作業は例外無く断るはずです。最善を尽くしてもたいてはオーナーに文句を言われることのほうが多いはずです。そんなのは私だってイヤです。
依頼主からのメールが最初届いたときは、ひとまず逃げようと思って(笑)、国内でチェロの修理をやっているお店や個人製作家などを探して相談するよう提案しました。くまなく探せば請け負ってくれる奇特な(危篤な)職人もひょっとしたら日本中に1人ぐらいはいるかもしれませんし......(ワクワク!)
その後.....
オーナーいわく、いくつかのショップの回答は冷たいもので、以下のとおりの回答であったと........
----------------------------------------【ショップA】
お問い合わせありがとうございます。
●●弦楽器です。
チェロのニス再塗装の件ですが、
ラッカー塗装を綺麗に全て落とす事は困難であり
当店ではお受けできません。ご了承下さい。
----------------------------------------
----------------------------------------【ショップB】
弦楽器●●ラ●●です。
お問合せありがとうございます。
(中略)
ニスの全面塗り替えという作業は当店では承っておりません。
当店だけではなく、殆どのお店で行ってないと思います。
(中略)
もし受けるお店があったとしても恐らくご想像しているよりも高く付くと思われます。
それでは今後とも宜しくお願いいたします。
----------------------------------------
このチェロのオーナーは日本国内で12〜13件あたってみたとのことです。しかし全てに断られた模様。ギターを買った都内のなじみのギター専門店●●ナでも断られ、国内最大規模の楽器店●●●ワ楽器店にも断られ、ヴァイオリン専門店のほか、ようするに全国の名だたるショップや工房のすべてに断られたようで.... 。
そして当クレーンホームページに再度相談のメールを頂きましたとさ.........
あ〜〜〜、やっぱりどこの職人も断るよねぇ、そりゃそうだ...... う〜〜ん、それならウチでやってみたいなぁ、と思ったり(笑)。そのかわり費用以上のサービスはやりません(できません)。CRANEのスタンスで好きにやらせてもらいます。基本的に身内や友人・縁故以外の修理の依頼は断っていますが、今回は修理内容に対するオーナーの理解や、メールの対応の状況をみての判断です。むしろバラバラの楽器を元に戻すぐらいのほうがやり甲斐はあるので.... まぁ、これは今回は特別な例であって自分の勉強代。時給換算で300円の世界ですね。
● 作業開始:剥離作業
全体と問題箇所の写真を撮影したら、さっそく取りかかります。
本来なら紙ヤスリをこまかく段階的に使って全体を丁寧に時間をかけ、細部はマスキングして削って剥離したほうが傷も付きにくいのです。自称「兵糧攻め」でジワジワと作業します。しかし今回はニスがオイルでもなく、セラックでもないので今回は「力攻め」で参ります。
まずは剥離剤とスクレーパで0.3mm〜0.6mmはあろうかと思われるラッカー層を剥がしていきます。..... と文章で書けば1行(読むのに2.5秒程度)ですが、実際には昼夜をとおして1週間以上かかっており、剥いでも剥いでも、ぜんぜん進まない心境で作業してます。写真は表面板を剥がしはじめたところです。f孔はスクレーパを引っ掛けてしまうのでマスキングしておき、あとから時間をかけて丁寧に作業します。
剥離剤は楽器の目立たない箇所で試してみて、合わないようであれば他のメーカーの剥離剤に切り換えます。基本的にはハケで塗布して数分待ってからスクレーパで丁寧にそぎ落とします。このとき下地に深くスクレーパが達しないように注意する必要があります。剥離剤を使うからといって単純に作業がらくになるわけでもないのです。そもそも19世紀ギターと違ってチェロはデカイ! 剥離剤もかなりの量が必要です。おまけに剥離剤はゴム手袋を溶かすほどの薬品なので肌に付着するとヒリヒリしてヤケドのごとく痛いのです。注意して作業しても気が付くと手袋に穴が空いてたりして深夜に夢中で作業していると.....
「なんか..... 痛いんですけど.... 」
洗い場へ直行。大量の流水で洗浄&冷却。ジュ〜〜〜〜ッ!
この作業は耐アルカリ/耐酸性の工業用手袋のほうがいいですね。楽器は平面がひとつも無いのでパレットナイフや細工ノミ各種、手術用メス各種、サンドペーパ、などを使わねば細部まで剥離できません。スクロール部分もスクレーパだけでは作業が困難なので、大小の宛木やら刃物を自作・駆使してひたすら無心で修行僧のごとく剥がします。あ〜〜〜、眠い〜〜、ハラ減った〜〜、やっぱり引き受けるんじゃなかった〜〜〜(笑)....
。
さっそく問題発生。ラッカーを剥がすとさらにその下に別の塗料の膜が現れて、おそらくは一度下塗りした楽器にあとからラッカーを素人が吹いたと思われます。そのため剥離作業を全体的に2回やることになりました。下地の層は硬く薄い塗料(オイル?)ですがそれに対してラッカー層は極厚です。
さて、おおざっぱに剥離した箇所は充分に拭き取って乾かしたのちサンディングしていきます。番手の選択が作業時間と仕上がり程度を左右します。ブ厚い塗装の残る部位は80番で、ほとんど下地が出ている箇所は240番、その中間も状態に合わせて番手を選びます。換言するならば予算が低いときは番手が下がり、予算が潤沢であれば番手が上がる傾向があります(笑)。
ボディのいたる箇所で剥離剤と共に剥がれたパテやとの粉で埋めたと思われる当時の痕跡があらわになっています。表面板や裏板にも無数のサンディングした痕跡が現れますがそれらをサンディングしていくと板厚が変わってしまうので程々でやめておきます。「焼け」も全体に見られるため、剥離とサンディングをどこまでやるかは仕上がりの印象に影響するので大きな問題です。オーナーからは多少の傷やムラは残ってもやむなしとの了解は得ていますが、できれば綺麗に仕上げたいのが人情。また、ボディの数カ所(とくに底部)には剥離困難な下地がまだらに残っていますが、これらもしつこく削るのはやめました。何らかのタッチアップ剤が残留したものでしょうか。写真に撮影しづらいのですが青い矢印がそうです(写真4)。他にもネックやヘッドのスクロールにも剥離困難な部位が数カ所にあります。ボディのくびれ部分はスクロール部分と同様にいりくんで作業が面倒........ 。
このほか、あれこれ難関もありましたがキリが無いので省略。
最後にfホールを処理しますが、ラッカーが積層してディテールを失っており、f孔の内周をノミとナイフで切りなおします。
連日の集中した作業の甲斐あって(あまり長引かせたくない)、ようやく剥離作業はほぼ完了。ホワイト・チェロ状態になりました。あとは下地塗料を塗りながら無数の細部の手直しを1つづつ処理していきます(可能な範囲内ですが)。
パーフリング部分はエッジが近く、ギターと違って窪みが全周にあるのでラッカーの塗装溜まりが激しく、日焼けのコントラストも残っていて難しい作業です。細部をチェックしていくと指板とナットの接着部にこんなのが...。接着剤のはみ出し(ニカワは使われていない)と指板のヘアラインクラックを数カ所に発見。綺麗にしておきましょう。
次の写真はネックと指板の段差をならしているところです。カンナとサンドペーパで対処します。全体にいくつか見られるこういった未加工箇所を仕上げていきます。まだいくつもラッカーの塗装溜まりが見られるのでしばらくはこれらを除去しながら塗装についてあれこれ思案することに... 。仕上げの色合いについては迷います、色がうまくなじむといいのですが...... 。
● 再塗装作業
さて、数日間乾燥させたのち、状態をみて塗装にかかります。塗装に関しては部屋の温湿度と天気と気圧を見ながら私は作業します。随所に残る古い塗料の残留箇所についてはスクレーパ等で削り取る努力をしましたが無理はせず、塗装のムラを極力抑える程度にとどめました。ただ、塗装の色決定の問題があり、ここに茶色や赤茶色やアンバー系の色を乗せると木材に浸透しない箇所がいくつもあらわになってしまいます。オーナーの当初の希望は濃い茶色の古楽器風でしたが、まだらになることを考えると濃色ニスは残念ながら避けたほうがよさそうです。修理や修復作業ではとりかかってからでないとわからないことも多いのです。
そんなわけで、茶褐色をやめてクリアに近い(でも少しイエローがかった)オイル仕上げにします。表面板以外はメイプルの木地を活かしてやや赤黄色っぽいクリア。ツヤを出してしまうと過去の小傷や色ムラが余計に目立つのでツヤはほとんど出ない程度に抑えることにします。
● 追加作業:パーフェクションペグ装着
さて、剥離作業の最中にオーナーからメールが来まして、今回楽器を預かっているあいだに追加作業の依頼とのこと。今まで付いていたエボニーの木ペグを内装ギアを持つギアペグに換装して欲しいと。私も以前からこのパーツの存在は知っていましたが、装着するのは初めてです。ノブを4回転させると巻軸は1回転します。バンジョーペグにも似た発想の製品。外観は写真のとおりストレートに見えますが、ちゃんと内部にギアが入っているのです。ノブを引っ張って弦を巻き上げ、押し込むとロックされるというしくみ。値段もまぁまぁです。
http://www.knilling.com/accessories.htm
ヘッドのペグ穴にマスキングして穴に若干の加工を加えて装着しました。
これはなかなか便利。演奏中でもサッと手を伸ばして調弦の微調整も可能。あまり力もいりません。年輩の方やかよわい婦女子の皆様にもヨロシイかも。スグレモノですがノブ部分がプラスチックであるせいか? ヒストリカルな指向の演奏家や製作家には見向きもされない製品らしいです。バロック時代に作られたオリジナル楽器ならともかく、世間で弾かれているヴァイオリン系楽器のほとんどはモダン楽器仕様ですからヒストリカルも何もあったもんじゃないと思うのですが....。バスバーと魂柱付けてネック角度を深くして鉄弦を張り、弓もモダンな楽器に向かってヒストリカルなスタイルを求めるというのも滑稽な気がします。もっとも、決してこのパーツは高級部品に見えないのも事実ではありますが....。
難点といえば、ペグ穴にこのパーツを「接着」せねばならず、ガレットのように気軽にいつでも交換できないという点です。それでも今回は装着にあたって、のちの時代に木ペグに戻しやすいように配慮してインストールしたつもりです。
というわけで、剥離と再塗装の作業が終わりました。
完了のページへ。